2018年08月20日

『ペンギン・ハイウェイ』ちょっと感想(ネタバレあり)



高名で年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。
可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。
十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。
――「クラークの三法則」



 「わからなさ」から生まれた怪異や神仙、魔法の類は、科学技術の発達によって世界の片隅へ追われてしまった。しかし現代では、その科学こそが「わからなさ」を孕むものとなり、新たなファンタジーに変貌してはいないだろうか。事実として、童話的なメタファーなしに、高度なテクノロジーを子供に説明することはできないだろう。(そういった意味で、インターネットを実世界に擬した『シュガー・ラッシュ:オンライン』は、現代の子供の感覚に寄り添う作品かもしれない)
 怪異を殺した科学が、再び怪異となって立ち現れてきた現代。『ペンギン・ハイウェイ』は、改めて科学の視座で怪異へ立ち向かう、ひと夏の冒険物語だ。
 鑑賞者である我々は、大人になるまで3800日余りの小学四年生「アオヤマくん」と目線を同じ高さに置く。それは、執拗に画面中央へと配置される「お姉さん」の「おっぱい」への窃視という、共犯行為からもたらされるものだ。アオヤマくんのように目を背けてしまいたくなる、とはいえスクリーンから目をそらすのも躊躇われるという気恥ずかしさを共有することで、我々は彼とともに冒険に出るための靴を履くことができる。
 アオヤマくんが挑むのは、我々の現実と重なるようで重ならない世界の「SF=すこし・ふしぎ」な謎だ。こちらの世界にもペンギンは生息しているが、日本の内陸部を跋扈してはいないし、コーラの缶を放り投げてもペンギンに変化することはない。=ではないが≠でもない、「≒の世界」の謎を解き明かすため、我々はアオヤマくん達と一緒に地道な検証を続けていく。思えば、現代の生活で感じる程度の疑問は、インターネットや書籍をもってすればたいていは解決できるようになってしまった。しかし「≒の世界」に無知である我々は、その謎についても手探りで解決しなければならない。そのことが浮き彫りになった瞬間、日常に潜むファンタジーとの出会いに童心へ返ったかのように胸が躍るのだ。
 大人である鑑賞者でも、子供と並ぶ視点で違和感なく見ることができるのは、作中世界において大人が排除されず、かといって子供を抑圧する存在でもなく、ストレスのない関係を築いているからだろう。年齢に関わらず言動に理があれば認める一方で、本当に危険な場面では声を荒げて止めることも厭わない。疑問があれば、答えではなく考え方を伝授して導いていく。2018年現在では、『サマーウォーズ』で提示される肉厚な家族観よりも、こちらに理想を感じる人は多いのではないだろうか。とはいえ、どんなに大人びていてもアオヤマくんが子供であることは紛れもない事実だ。子供同士では老成しているとすら表現できそうなアオヤマくんも、お姉さんや父親と並べば(言動は変わっていないのだが)なぜかとても子供じみて見えるから不思議に感じてしまう。
 「すこし・ふしぎ」な謎に、アオヤマくんや友達が挑む「必要」はなかった。それでも彼らは探究心に駆られて立ち向かう。やむにやまれず世界の謎を背負っていく「セカイ系」の特徴とも異なる新鮮な在り方だ。しかし、それに違和感を覚えることはないだろう。なぜなら、鑑賞している我々もまた、アオヤマくん達と一緒に謎に取り組みたいと感じさせられてしまうからだ。白黒がはっきりと分かたれたペンギンは、規則正しく歩を進め、世界の解を導いていくようでもある。
 「世界の謎」と「お姉さんへの気持ち」は、アオヤマくんにとっては対等に大切な研究課題だ。後者を世界の果てへと閉じ込めてしまったアオヤマくんは、その不可解な謎を解き明かそうと、お姉さんを憧憬しながら研究を続けていくのだろう。しかし、思い返されるのは、お姉さんもまた「海辺の町」を写真に閉じ込めて憧憬する存在であったこと。電車という「科学」では、遂にそこへ辿り着くことはできなかったことだ。アオヤマくんが誰かにとっての「お兄さん」になる日が来るとしても、ひと夏の冒険の末に閉じ込めた思いは解放されることはなく、『Good Night』の中でだけ出会えるのかもしれない。
posted by Ford at 23:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする